真田幸村の墓

発見!?真田幸村の墓???

 さて、島原半島のどこに真田幸村の墓があるのだろうか。某御住職は大工事や大手術のため、それ
どころではなかったのである。
 そんなある日、偶然、多比良の甲斐家の方とお話しする機会があった。甲斐・信濃の連想から期待して
失礼ではあったがお伺いしてみた。「甲斐さんは、もしかして、甲斐の国からおいでになったのではありま
せんか?」「はい、島原の乱のあと、甲斐から来ました。その時一緒に来られた方々は、今も諏訪の池
(現南島原市北有馬町)の辺りに住んでおられまして、一部落皆甲斐と名のっています。本家の私どもの
先祖は城下でたいそう大きな商いをしておりましたが、故あって多比良に移りました」とのこと。
 有馬は原城址のあるところ、期待が高まってきた。「島原半島に真田幸村の墓があるそうですが、どこにあるかご存知ではありませんか?」「はい、そんなこともございましょう。加津佐あたりに豊臣秀頼の墓があると聞いております。」私はたまがった。
 さらに面白くなってきた。しかし、課題は増え続けている。
 某御住職もやっと、工事も終わり御健康を回復されたときには、私の方はかなりの確信があり、存在の
可能性を説明した。何回かお話しをいただいたことをつづめていうと、「きっとね、見岳の上にある、立派
な階段のある、身分のある人のお墓だろうね。神様と地元の人から呼ばれている、あれだろうね」という
ことだった。
 とうとうお盆明けを待って案内していただいた。現南島原市西有家町見岳小学校付近から山の中へ入っていく。道々車中でお伺いしたところによると、ある外科の院長先生が「和尚さんは、真田幸村の墓の島原半島にあったとは知っちょらすちとね?」と聞かれただけで、その時は、なんの気なしに場所も根拠もおききにならなかったということだった。残念なことにもうその先生は故人になっておられる。
 以前、寺総代のお一人がお話なさったことから、一度お参りしたことのある、今行こうとしている、あれがきっとそうだろうということだった。
 
 石造りの鳥居が見えた。長い階段が続いている。菩薩様とも呼ばれているということから推し量ると,額の文字は風化していて、はっきりしないが大菩薩と読めるようだった。階段を上りつめると以前は墓を覆っていたいう、お篭もり堂が前にあり、その脇を通って裏にまわると、あった。これだ!鹿児島の墓にそっくりだ。
 帰りは海に向かって下るので、湯島(島原の乱の謀議が行われたので談合島という)が直ぐ間近に見える。思わず「談合島に近いですね〜」ともらすと
「そうです、ここから下った須川が一番談合島に近いと言われています。」
ふむふむこれこそと私はさらに確信を深くした。




南島原市見岳・真田幸村の墓(推定)



墓の脇から引いた水


その水で潤おされる棚田(中央は海上の湯島)



近所の戸ノ隅の滝


鉄分が豊富