真田幸村薩摩へ

なぜ、幸村が九州に?

 帰郷して、しばらくは多忙で墓のことは忘れていたが、例の講演会は毎年秋、長野で行われる重要な
大会なので、18年度も参加しようと思った。すると真田幸村のことが気になって写真のこともあるし、調べてみることにした。
 今は便利なもので、インターネットである程度のことは居ながらにして知ることが出来る。
 さて、真田幸村のキーワードでリサーチすると膨大な数のヒットがあった。真田幸村の本名は真田信繁であることを初めて知った。一つ一つ参考になりそうなものをプリントアウトして(ときどき工事中で見られなかったりすることがある)読んでいった。
 すると『真田幸村生存説関連』というのもあり、わくわくしてきた。
 それによると、真田幸村・大助親子は豊臣秀頼らと共に薩摩に逃れ居宅を与えられて生き延びていた。
投稿者の先祖は鹿児島で生まれた幸村の子で、代々そのことを言い伝えてきた。身分姓名も明かして
おられる。幸村の墓の写真も別の項目ながらあった。それは幸村が住んでいた所で鹿児島県揖宿郡
頴娃町にあるということである。
 詳しくはネット上で見てもらうとして、たくさんの幸村関連の言い伝えが記録に残されているが、島原関係の部分を取り出していうと、
 鹿児島の人は、落ち延びていた真田幸村を芦塚大左衛門、大助は芦塚中左衛門、その子は小左衛門と呼んでいた。大助は豊臣秀頼の子天草四郎を総大将に立て、キリシタンの大騒動を巻き起こしたという
のがある。