真田大助はなぜ生き延びたか

繰り広げられる空想

ここまで原稿をまとめ家族に感想を聞いた。
家内は「う〜ん、ワクワクするね」と優しい。
息子は厳しい「鹿児島の墓は大正時代に造られたらしいよ」
私・「なんて〜、何で見た?」
息子・「ネットにあるやん」
私・「直ぐ出して!」
鹿児島の墓の写真の同じサイトにあった。
身分姓名を明かした真田幸村の子孫、かの濱崎氏の文だった。
見逃していた。鹿児島の墓は大正時代になって造られたのだということを。あ〜、やんぬるかな!
しかし、よくよく見ると更に希望が無いではなかった。鹿児島の墓の所在地と吾妻芦塚家の住所と
  鹿児島県揖宿郡頴娃町大字牧之内
  長崎県雲仙市吾妻町牧之内
同じく牧之内である。これは偶然と言い切れるだろうか。
 いろんな事が、考えられる。もしも、吾妻芦塚家に同形の墓があれば・・・。
 この原稿を持参して芦塚家をお訪ねし、御先祖の墓をおがませてもらい、お話しをお伺いするに越したこ
とはない。
 さて、今日(06,9月2日)お訪ねしよう。
 実は、この課題(真田幸村の墓 島原半島に?)で、日本史の一つの大きな流れを示唆して、別のサイト
を設けて壮大な夢を物語っていこうと思っていた。芦塚家にお伺いする以上、その構想が決して真田幸
村、ひいては芦塚家の名誉を損ずるようなことではないと、ご理解いただかねばならない。
 そこで、このあと、そういう風に展開するか簡単にお話ししたい。資料として
  ○真田幸村の墓の存在
  ○豊臣秀頼の墓の存在の可能性
  ○島原の乱の首謀者、森宗意軒は楠正成の子孫である可能性
  ○由比正雪(南木流つまり楠流軍学を教えた)の住んだ家の庭が島原にあるという伝承(渋江氏著書)
などから、真田家と楠家とのかかわり、南朝とのかかわり、更に、武内宿禰とのかかわりから古代世界
へと夢を伸ばしていこうと思っている。この同じサイトで述べていきたい。




伝 由比正雪の屋敷跡