山田芦塚家 その一

 平成十八年九月二日午後、諫早へ行く用事もあり、途中雲仙旧山田村牧之内を訪ねた。良い天気だった。
山へ山へと向かって行くと家内が「綺麗な棚田ね〜」と発声した。
確かに見事に整備された美しい棚田だったが私はそれどころではなく、
お墓だけが気掛かりだった。幸村の墓に似た立派な墓を見逃してはならない。
あった。道路に沿ってお墓があった。新しいの古いの取り混ぜて十数家分のお墓があった。拝見すると
享保の文字も見えたが、古いものは形が立派というお墓は無かった。苗字と地図を照合すると芦塚家はもっと上にある。
少し上がって行くと、芦塚家に辿り着いた。玄関で挨拶したが、お返事が無かったので休憩中だろうと思って遠慮した。
実は慌てていたので、原稿は持って来ていたが、お土産を忘れていたのだ。
お墓が見えたので、失礼しながら拝ませてもらった。
 
 無い、期待していた見岳の墓に似たお墓は無い。諫早の用事を済ませ、お土産を買うことにした。
 帰りに再びお訪ねした。行きがけの時お伺いしたお宅は、お墓が近かったが間違いだった。しかしあの
時、間違わなければ、お墓は暗くて見えなかっただろう。
心の中ではラッキーとか思っていた。(これは何かのお導きであろうと書くべきか)
 芦塚家の奥様が応対して下さった。ご主人はまだお仕事から戻られていなかった。「お宅は御旧家で
いらっしゃって、御先祖様は島原の乱に御関係がおありだと伺ってますが、何か真田家とかに関する
言い伝えはございませんでしょうか?」「はい、私は途中からまいりましたもので、何も分かりませんが
記録類は、もう少し上にありました元の古い家が火災にあった時全部無くしてしまったそうです」
 「渋江先生のご本の中にありますのは『なかのいえ』とお読みするのですか?」「はい、ご近所の方々は
そう呼んでおられます」
 「失礼とは存じましたがお墓を見させていただきましたが初代の墓はどうなっていますか?」「初代は敵
の心配からお墓はソテツの木だと、亡くなった義父から聞いております」
 「そうですか、実は真田幸村の墓が島原半島にあるということで調べますと、どうもお宅はその御子孫
ではないかということになるのです。ネットに載せようと思っておりますが、ご主人がご覧になって、迷惑だ
とお思いになられましたら、お電話を下さい」と申し上げて、原稿をお渡しして帰宅した。



家内が見た綺麗な棚田


私は左端の墓にしか興味が無かった


山田芦塚家 その二

 自宅に戻ってから今日の出来事を思い返した。
  @「なかのいえ」とは、あくまでもご近所の方々が呼んでいらっしゃる。
  A「牧之内」という地名。
ひらめいた!まわりの方々の存在!
 先入観念の落とし穴だった。隠密は単独行動だろうという安易な思い込み。真田大助が単身果敢にここ山田の地を開墾したのだと思い込んでいた。
言い訳のようだが、文献にも(『島原一揆』)次のようにある。
 …明治十二年南高来郡教育編島原人物誌に
   山田村木場名に芦塚家あり。当主を芦塚十郎と云ひ世々十左衛門を以って通称とす。初代より十三
     代、十四代と云うも詳らかならず。祖先は・・・中略・・・乱後山田村に来り住す。当時木場名は田畑
    開けず随って人家も見ず。依って鋭意開墾に従事し栽培に努力す、百姓風を望みて集まり来る。
     依って称して十左衛門木場と云ふ。
     今より百五十年前、大いに飢饉あり。当時芦塚家は乙名の職にあり。穀千五百俵を出して救恤す。
     藩これを嘉し…
 ・・・中略・・・
 山田村の伝説によれば忠太夫は山中をさまよいつつ、十数理離れたこの村に辿りつき仏岩に腰掛け
 ながら「ここが安住の地なり」とて居住したという。(ここでは初代を芦塚忠太夫としているが、何の根拠
 もない)
「百姓風を望みて集まり来る」前に開墾していたのは初代だけではなく「なかのいえ」と呼び続ける
まわりの人々だったのだ。そして、その人々は在所を「牧之内」と呼び習わした。
 つまり、鹿児島時代の大中小の左衛門を知り、慣れ親しんだ「牧之内」の地名を自称し、他には判らないように隠語として「なかのいえ」と呼び続けた。鹿児島時代は、もっと早ければ河内九度山時代(そうで
あれば、真田十勇士を含む家来の生き残り(面白く言えば)から、見岳、山田と付き従った方々なのだ。
 戦士だけではない。家族もいる。実は北目(島原半島の北部をそう言う)のほとんどの住民は一揆の呼
び掛けに対して反対したのだ。談合島近くの見岳付近に居を構えた家臣団は乱を前にして避難のため
移住して山田の開墾を始めたのだろう。そして、隠語で「なかのいえ」と呼ばれたのは、その領地は
小さいながらも領主としての真田大助だっただろう。だからこそ、飢餓の時大量の米をボランティアでき
たのだろう。
 墓を見ながら芦塚家を捜した私は、上下の関係から、下方にあった十数家分の共同墓地は真田家
家臣団の方々のものだと推測する。うがち過ぎだろうか。
 ともあれ、山の中の冷たい豊富な湧き水。これこそが美味しいお米を作る基であることを、今の島原の
通人は知っている。上流こそがおいしい。その見岳の幸村の墓(推定)の近辺もまさにその条件を満たしており、ここ山田の棚田も山中ながらまさに絶好の良米の宝庫なのである。



鉄分豊富な水が伺われる




その水で培われる美味しい牧之内のお米